なんというか。
難しいことは言えないけれど、共感したのです。
私にはまだ、言葉でうまく表せるほどのモノはないのだけれど。
玲ちぇるとは誰か、という問題と、
“わたし”とは誰か、という問題は別個のもの。
玲ちぇると“わたし”は別物であって、たまたま“わたし”の器が玲ちぇるだっただけ。
(※ここで言う玲ちぇるとは、私自信の固有名詞のこと)
別に玲ちぇるじゃなくても、“わたし”は変わらない。
玲ちぇるが死んでも、“わたし”は死なない。
“わたし”が死んでも、玲ちぇるは死なない。
“わたし”が死んでもみんなはわからない。
きっと、玲ちぇるにもわからない。
“わたし”が死んで違う<わたし>に変わっても、誰も何もわからないし、変わらない。
そうすると、“わたし”は何のためにいるのかもわからなくなって。
“わたし”が誰かもわからなくなる。
これが差し当たり“わたし”の考えるところ。
問いに対する答えは見つからない。
いつかのブログにも似たようなことを書いたっけ。
ちょっと違うか。
考えても答えは出ないし、それでいいんじゃないかってことなんだけど。
最近読んだ永井均氏著の「<子ども>のための哲学」、
それから、6月27日の瓜生秋希葉さんのブログ。
そこで知った池田晶子氏の言葉。
そして、最近の“わたし”の頭の中。
色々なことがリンクしてビビビってきました。
瓜生さんの「違う夜」という曲を聴いて泣いてしまうのは、
ただ今の自分の現状と重なる部分があるからってだけじゃなくて、
さらにその先のもっと奥で、何かが通じていて、
それが染み入ってくるからなのかな、と思ったのです。
“わたし”という、
玲ちぇる。